2015年6月22日月曜日

ラスタの歴史 part1


前回より引続き、今回はラスタの歴史についてお話しします。

聞き慣れない言葉続きでつまらないかもしれませんが、ルーツを知って少しでも興味を持っていただけたら嬉しいです。


登場人物

神:ハイレ・セラシエ1世(Haile Selassie Ⅰ)


エチオピアの皇帝。ラスタではヤハウェの化身と信じられ、神として崇拝されています。

日本語ではハイレ・セラシエと表記されますが、個人的に耳から聞こえる音はハイリ・セラッシ。
"ハイレ・セラシエ"の違和感がすごい(笑)



預言者:マーカス・ガーベイ(Marcus Mosiah Garvey)


黒人解放に努めジャマイカ初のナショナル・ヒーロー(国民的英雄)となったマーカス・ガーベイは、ラスタにおいて預言者と位置付けられ、ヨハネの生まれ変わりとも信じられています。
私の任地であるセントアン教区出身です!

余談ですが彼の出身地の危機について同期隊員が面白い記事をアップしていたので紹介させて下さい。
参考:ジャマイカの水資源が危ない?
    https://morishiman.wordpress.com/2015/06/12/772/



創始者:レナード・ハウエル(Leonard Percival Howell)


ラスタファリ運動の創始者。クラレンドン教区の出身。
布教にあたり何度か監獄されています。
一部のラスタには"彼が最初のラスタだ"と言われていますが、パッと見のラスタ感はゼロ。創始者だからね。


ラスタの歴史(前半)

今回はラスタ創世記~1950年代にかけてです。



1914年

マーカス・ガーベイが黒人の権利を主張し、UNIA-ACL*を設立。
*United Nigro Improvement Association and African Communities League/世界黒人開発協会アフリカ社会連合

彼は黒人のアイデンティティを求める運動として始まった"パン・アフリカ主義"に基づき、奴隷貿易で連れてこられた世界中のアフリカ系住民の解放と連帯を訴えました。
故郷のアフリカに帰りたいという人種的な切望であり、これがラスタのRepatriation、アフリカ回帰の基となります。

ガーベイの主張はアメリカだけでなく、カリブや南アメリカに住む黒人の支持を得て、1920年にはUNIAの会員は400万人を超えました。


1927年

ガーベイが「アフリカを見よ。黒人の王が戴冠する時、解放の日は近い」との声明を発表。

これが熱狂的なガーベイ主義者たちに"預言"と捉えられました。


1930年

エチオピアの皇帝にハイレ・セラシエが即位。


ガーベイの預言どおり、「アフリカで黒人の王が戴冠」するという奇跡が起こりました。
この神の啓示をきっかけとして当時UNIAのリーダーでもあったレナード・ハウエルを中心にガーベイ主義の布教が始まり、これが初期のラスタ運動へとつながります。

当時イギリスの植民地支配と度重なる自然災害、大恐慌による経済悪化などで多くの国民が疲弊しており、救いを求める貧しい下層階級の人々を中心にガーベイ主義の信者が増えていきました。


"Ras Tafari Makonnen as the promised Messiah from the bible."

キリスト教ではイエス・キリストがメシア(救世主、救い主)とされていますが、
ハウエルは「ハイレ・セラシエこそこの世に再び現れた救世主である」と断言します。

そしてエチオピアの皇帝(Emperor of Ethiopia)を意味する「Ras Tafari Makonnen」から名前を取り、この運動が"Rastafari"と呼ばれるようになるのです。



1934年

ハイレ・セラシエを救世主とするハウエルの思想は反教会的、反政府的と考えられ、運動に危機を感じた政府は弾圧を始めます。そしてハウエルは「英王室への侮辱罪」として逮捕されるのです。

短期間の拘束であったものの、この後ハウエルは何度か投獄されることに。


そしてこの頃ハウエルを含むラスタファリアンは弾圧を逃れるため丘陵の奥に逃げ込み、最初のラスタキャンプとしてSt.Catherine教区にPinnacle(ピナクルorピネクル)コミューンを作りました。
ここでの共同生活を通して様々な儀式やガンジャ(大麻)、ドレッドなどラスタファリズムのスタイルと信仰を確立していったのです。

ちなみにピナクルは現在でも残っており、ラスタの集会が行われています。
キングストンからオーチョリオスに向かう際通るBog Walk近くのコミュニティです。ナヤビンギ(ラスタの集会)が見学可能です!

ナヤビンギ(イメージ)@RastaVillage


1940s-1950s

警察の襲撃を数度受け、数百人ものラスタが逮捕されました。
1954年にとうとうコミューンを破壊され、ラスタ達はスラム街に放り出されるのです。


この少し前である1945年、伝説のレゲエミュージシャン、ボブ・マーリーがこの世に生を受けました。
ボブは幼少期をセントアン教区にあるナインマイルズで過ごしますが、彼が10歳になる1955年、父の死をきっかけに経済状況が悪くなった母親が職を求めてキングストン郊外のスラム街にボブと共に移り住みます。

時を同じくしてスラム街に移り住んだ両者。
これがボブマーリーとラスタの出会いに繋がっていくのです。




あぁ難しい!
次回は1950年代後半から現在までです。


つづく

※この投稿は、ジャマイカでの語学訓練やラスタ村の訪問、現地の方々から学んだ話を元に執筆しています。間違いや解釈の違いがあればぜひ教えてください。
Special Thanks; Arlene, Wendy, Ra-jah

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 *更新後にアクセス可能となります。

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