2015年6月29日月曜日

最高の贅沢

 
昔からの夢
キレイな海の近くに住むこと。
 
自慢ですがいま叶っています。

真っ青なカリブ海まで徒歩15分(自慢)
 
 
 
夕方泳ぎに行くことが多いのですが、やっぱりサンセットは格別!!
嫌なことがあっても一気に浄化される気がします。
 
 
 
ビーチにはバーやレストランがあるので、ビール飲みながらのサンセットが最高。

日本みたいに素敵なレストランや夜遊びには行けないけど、仕事終わりにこんなサンセットが見れるだけで贅沢です!
 

 
 

誰が何と言おうと、ジャマイカNo.1ビーチは我が町で決まり!!(笑)
ゆったりまったりしたい方は、ぜひDiscovery Bayへ!
 
 

2015年6月28日日曜日

オーチョリオスのおすすめカフェ"Cafe Express"


オーチョリオスでたまに行くカフェが2軒あるのですが、オススメはこちら、Cafe Express

メインロードの西端にあるタージマハル・ショッピングセンターの2階にあります。

 
 
超美味しい!とか居心地良すぎ!
 
 
...って訳ではありませんが(笑)
 
 
こういったカフェは首都キングストン以外ではなかなか見つからないので重宝です。
朝7時からモーニングをやっているので、旅行中にも使えるかも。

 


 
 
観光客向けなので少~し高めですが、癒しの時間はプライスレス!!
恵まれてるなぁ。

2015年6月27日土曜日

Banana Chips




ジャマイカで一番有名ともいえるスナック菓子、St.Maryのバナナチップス。
バナナと言っても甘いバナナではなく、調理用の甘くない緑バナナを薄くスライスして揚げた塩味のスナックです。


昨年種類が増え、ジャマイカらしいフレーバーがたくさん。
オススメはチリ&ライム!

2015年6月26日金曜日

ラスタのシンボル part2


ラスタのシンボル、第2弾です!


ガンジャ



ガンジャとは、大麻(マリファナ)のこと。
ラスタではサクラメント(神聖なもの)とされ、瞑想のためにこの神の草の力を借りるのです。

呪術的な色の濃いアフリカ土着の宗教が主流だった頃から、ガンジャは薬草として扱われてきました。ラスタの出現以降バビロン(当時の西洋社会や権力)への反抗手段として広まったとも聞きましたが、ここら辺は定かでないのでもうちょっと勉強してからお話しします。


以前はジャマイカでも禁止薬物でしたが今年の2月に法律が変わり、宗教や医療目的の利用は認められるようになりました。

参考:歴史的な法改正
    http://ackeeinnajamdung.blogspot.com/2015/03/blog-post_11.html


ちなみにタバコは禁忌。
ガンジャは医療にも使われるし、中毒性もない。むしろ身体に良いと考えられています。



アイタルフード



アイタルと呼ばれるラスタ特有の食文化。
Vital(生命)が語源であり、Freshの意味を持ちます。

アイタルフードとは肉類や添加物を使わずに作った菜食料理のことで、超ナチュラル思考なラスタファリアンの食事スタイル。
 
体内で腐敗すると考えられるため、基本的に赤肉は食べません。
魚は旧約聖書で大丈夫とされているため食べる人も多くいます。ただ鱗のない魚や12インチ以上の大きな魚は食べないそうです。
 
ハーブをたくさん使い素材の味を引き出すので、塩も加えません。
人によっては深海から取れた塩を使うこともあるとか。
 
 
友人のラスタはまだまだ信仰が浅いらしいのですが、こないだ切実に
 
 
"I miss chicken..." てつぶやいてました(笑)
 
 
そんなゆる~い信仰のラスタもいますし、鶏肉やヤギは食べる、という人もいるみたいです。

 
 
 

タム&バッジ

 

タム(tam)とはドレッドの人が髪をまとめるために被る毛編みの帽子のこと。
大抵ラスタカラーの帽子をかぶる人が多いですが、ターバンを巻いているひともいます。



それと、この写真では見づらいのですが、ラスタの神ハイレ・セラシエのバッジを身に付けている人が多いです。
みんなビーズで手作りしていて、ラスタのおっちゃん達めっちゃシャレオツ。




ラスタの言葉

 
 
ジャマイカでは英語とアフリカ語を混ぜた方言のような英語、パトワ語が話されているのですが、ラスタの先人たちはこのパトワ語にさらに変化を加え、独特の言葉を創り出しました。
 
 
言霊を信じており、ポジティブな信念を反映させて話すのだとか。
 
 
たとえばこんな言い方があります。
 
・ understand → overstand  ;underは何かの下を意味するため

 
・ appreciate → apprecilove ;ate = hate(憎しみ)をloveと言い換える
 
・ dedication → livication ;dediがdead(死)を連想させる
 
・ me,you,we→ I and I ;equalty(平等)を表す
 
 
最も重要なコンセプトは人称代名詞で、youやmeを"I"に言い換えます。
これは人を呼び方で区別するのではなくお互いの人間性を認識し合うため、人と人とのつながりを表すために使うそう。
You and MeではなくI and Iだから争いは起きません。
 
 
 
以上でラスタのシンボル編はおわり。
書いてみるとガンジャの理解が甘々だなと感じたので、友人でありガンジャ連盟の地域ボスラスタ捕まえて勉強してきます(笑)
 
 
長々と続いているラスタ編、最後にラスタの分派についてまとめて終わりたいと思います!
 
 
つづく

※この投稿は、ジャマイカでの語学訓練やラスタ村の訪問、現地の方々から学んだ話を元に執筆しています。間違いや解釈の違いがあればぜひ教えてください。
Special Thanks; Arlene, Wendy, Ra-jah


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-ディープなジャマイカを体験!ラスタ村part2 / Rastafari Indigenous Village
-ディープなジャマイカを体験!ラスタ村 part3 / Rastafari Indigenous Village
-ラスタとは何ぞや
-ラスタの歴史 part1
-ラスタの歴史 part2
-ラスタのシンボルpart1
-ラスタのシンボルpart2
-ラスタの三大教派

 *更新後にアクセス可能となります。
 

2015年6月25日木曜日

ラスタのシンボル part1


今回はラスタを理解するうえで知っておきたいシンボルについてお話しします。


ラスタカラー


レゲエファッションとしてもお馴染みのラスタカラー。

元々マーカス・ガーベイが設立したUNIAに始まった黒人運動の旗は赤、黒、緑の三色をシンボルとしていました。

それがハイレ・セラシエが皇帝即位した際にエチオピア国旗から黄色を取り入れ、現在の赤、黄色、緑、(+黒)となったそうです。

それぞれの色には意味が込められています。
  • 赤-戦いで流れた血
  • 黄-太陽
  • 緑-肥沃な大地
  • 黒-解放のために戦った黒人戦士
協力隊員なら聞き覚えのあるフレーズばかり、世界中の国旗の意味によく出てくる意味そのままですね。

黄、赤、緑
 
色の順番ですが、一般的に"黄色真ん中説"が多いようですが、
エチオピア戦争の時に色の順番を入れ替えた過去もあるため、色に順番はない、と言う人もいます。

ラスタ村では空から地面の自然に沿って、
太陽の黄色を上に、人間の血を表す赤が真ん中、足元に緑の大地
の順番で使うのを好むそうです。

 
 
ユダのライオン
 
 
 
国旗の真ん中に見かけることの多いライオンは、ラスタの神、ハイレ・セラシエの象徴です。

セラシエが即位した時、彼の称号は

"King of Kings, Lord of Lords, and Conquiring Lion of the Tribe of Judah"
「王の中の王、主の中の主、ユダ族の征服獅子王」

となり、これにより王の王や男性優位を象徴するライオンがラスタのシンボルともなりました。


有名なMarley Coffeeもライオンがシンボル。



ドレッドロックス
 
日本でもドレッドとして知られる、髪の毛が束状に絡まり合った髪型。
長い人は地面まで届くほどあります。
 


ラスタでは身体に刃物を当ててはならず、たとえ髪の毛でもその身を傷つけてはいけない、あるがままに敬うべき、と考えられています。だから、髪もヒゲも、眉毛も鼻毛も伸びっぱなし!

自然なままに伸ばすので、ブラシなど非天然なものを通すことも禁じられており、頭髪が絡まって伸びた結果ドレッドのスタイルとなります。


ボブも迫力のあるドレッドです


正直いうと、迫力もすごいしホームレスをイメージさせる髪型でもあり、最初すごく怖かったです。が、ラスタと触れ合ううちに一瞬で吹き飛びました。


それに(?)彼らのドレッド、そんなに臭わないんです。(人によると思いますが)

どうやら黒人の体質として、頭皮から皮脂があまり出ないし、髪の毛は水をはじきやすいらしい
。そのため臭くなりにくいそうです。(人によると思いますが)


ちなみに友人のラスタは、足首まであるドレッドを週1回洗うそうです。
毎週日曜の朝から洗って、1日かけて乾かすんだとか。洗った直後は重すぎて、お庭にイス出して天日干しするらしい(笑)



つづく

※この投稿は、ジャマイカでの語学訓練やラスタ村の訪問、現地の方々から学んだ話を元に執筆しています。間違いや解釈の違いがあればぜひ教えてください。
Special Thanks; Arlene, Wendy, Ra-jah

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-ラスタの歴史 part1
-ラスタの歴史 part2
-ラスタのシンボル part1
-ラスタのシンボルpart2
-ラスタの三大教派

 *更新後にアクセス可能となります。

2015年6月24日水曜日

GRATER CAKE

 
ココナッツをぎゅっと固めたジャマイカ昔ながらのお菓子
 
正式にはGrater Cakeというそうですが、一般的には
 
"Pinkontop (ピンコントップ)"
 
 
と呼ばれています。
 


 その名のとおり、Pink on Top、上の方がピンク。

ネーミング雑!









・・・あれ、これで終わり?

最近長い投稿が続いていたので内容薄く感じてしまいますが、そもそも"ゆるく気ままに"がテーマの自己満足くだらなブログなので、これが通常運転です(笑)


2015年6月23日火曜日

ラスタの歴史 part2


今回は1950年代後半~現在まで、ラスタの歴史後半編です。




ラスタの歴史(後半)


1955年

エチオピア世界連盟の要人がジャマイカを来訪。
彼は皇帝ハイレ・セラシエが商船の建造に力を入れていることを伝え、船がジャマイカを訪れる日は遠くないことを示唆します。
それはアフリカ行きの船に乗れる可能性を意味し、ジャマイカ人のRepatriation、アフリカ回帰羨望は一気に高まり、ラスタの加入者は一夜で2倍にもなったと言われています。これをきっかけにラスタが広く一般にも広まり、大きな発展を遂げました。



1961年

ラスタファリアンであるSam Brownが議員に立候補し、政界へ進出します。
彼はRas Brownとして知られていますが、"Ras"とはラスタファリアンであることを示します。

この政界進出を契機に、貧困層から始まり50年代後半に一般層へと広まったラスタが知識層にも広まっていきました。



1962年

8月6日、ジャマイカが英連邦王国として独立を宣言。



1966年

4月21日、ラスタの神であるエチオピアの皇帝ハイレ・セラシエがジャマイカを訪れました。


1万人以上が空港に押し寄せ、皇帝自身が動揺するほどの歓迎を受けたそうです。

そりゃそうだ。
セラシエ本人は自分が神だとは思っていなかったから、驚くのも当たり前ですね。



この来訪時にセラシエは「ジャマイカを解放するまでエチオピア移住を控えるように」という私信を出します。

これにより「ザイオン帰還よりバビロン解放を
(ザイオン(Zion、天国、エチオピア)への帰還よりも、バビロン(圧制者)からの解放を)という考えが浸透していき、現在の「BodyではなくMindをアフリカ式」に暮らすスタイルが出来ていくのです。



1960s後半~

当時のジャマイカ音楽シーンを見ると、1960年代半ばまではスカやロックステディが流行していましたが、1962年の独立後の混乱期や1966年セラシエ来訪を受け、ラスタの思想やメッセージを伝える手段としての音楽、すなわちレゲエという音楽が生まれました。


そしてラスタのミュージシャンが、さまざまなラスタのメッセージをレゲエに乗せ多くのジャマイカ人から支持されるようになり、1967年頃レゲエが出来上がったと言われています。

なかでも1970年代にボブ・マーリーが世界的にヒットし、彼がレゲエを確固たる音楽ジャンルへと引き上げました。この時代はレゲエとラスタが密接な関係にあり、ボブの成功をもってラスタになる人も多かったそうです。


1975年~

1975年8月23日、ラスタの神でありエチオピア皇帝のハイレ・セラシエが、クーデターによる拘禁中に死去。



それまでラスタはセラシエを不死身のメシアの化身として崇めてきましたが、その皇帝が亡くなったのです。
しかしラスタファリアン達は「皇帝は現世の役目を終え神的領域に移り去っただけ」と考え、この悲報を受けてもラスタファリ運動のモチベーションは下がることはありませんでした。

こういった神の死に対する解釈は、さまざまな宗教で見られる矛盾ですね。


皇帝亡き後、ボブマーリーは「Jah live」(ジャー(神)は生きている)と歌い、ファンであるラスタ達からは「荒ぶる魂の預言者」や「救世主の象徴」などとも位置付けられ、生ける伝説となっていったのです。


1980年以降

1981年にボブが亡くなるまでラスタファリ運動は活発であり続けました。
虐げられた者達のために歌い、社会正義を叫び続けたレゲエのスーパースター、ボブマーリー。彼の伝説についてはまたの機会にまとめます。


80年以降のレゲエには、ラスタのメッセージや嘆きではなく、クールな歌詞が乗せられるようになっていったそうです。ここらへんからはレゲエの領域になっていきますが、ジャマイカ音楽の歴史はきちんと勉強していないので終了!





もちろん今でもラスタのメッセージを歌うアーティストはたくさんいます。

が、一般的な音楽ジャンルとなったレゲエ、その根底にあるラスタファリズムなんたるやを知らない人が多いのではないでしょうか。

先日も書きましたが、1つの音楽ジャンルなので深く考えている人は少数派かもしれません。

でもジャマイカに来て、今までレゲエやラスタをイメージでしか知らなかったことに気づき、なんだかずーーっと違和感をもっていたんです。そして、せっかくジャマイカに住んでいるので、濃ゆい本当の文化やルーツをもっともっと知ってほしいと思ったのです。


ラスタ以外が「ジャーーー」とか「ラスタファーライ」と叫ぶのを本当の崇拝者はどう思っているのかな?叫ぶ側は意味を理解してるのかな?

元々は「Jah」=神様を表す「Jehovah」(エホバ)の略。
彼らの「ジャーーーラスタファーラァーイ」は、神・セラシエへの崇拝が心から出た叫びです。
日本人が外人から「南無...」とか言われる感覚?と思ったり。

レゲエ用語として知られるザイオンやバビロンがどうのとか、ヤーマンの使い方とか、
私がもっていた違和感はこの辺りにありそうです。パトワ語についても今度まとめよう。


今は普通のレスポンスとして使われていますし、決して現在のレゲエを非難している訳ではなく
ジャマイカの文化をもっと知ってほしい、理解してほしい、という意味ですので、ご承知おきください!



ふぅ、、
歴史編もむずかしかったし、自分の考えを書くのってむずかしいな。。
ラスタの話が続いたので次は別の投稿をはさみますが、ラスタシリーズ今後も続きます。ぜひ続きも読んでください。


つづく

※この投稿は、ジャマイカでの語学訓練やラスタ村の訪問、現地の方々から学んだ話を元に執筆しています。間違いや解釈の違いがあればぜひ教えてください。
Special Thanks; Arlene, Wendy, Ra-jah

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 *更新後にアクセス可能となります。

2015年6月22日月曜日

ラスタの歴史 part1


前回より引続き、今回はラスタの歴史についてお話しします。

聞き慣れない言葉続きでつまらないかもしれませんが、ルーツを知って少しでも興味を持っていただけたら嬉しいです。


登場人物

神:ハイレ・セラシエ1世(Haile Selassie Ⅰ)


エチオピアの皇帝。ラスタではヤハウェの化身と信じられ、神として崇拝されています。

日本語ではハイレ・セラシエと表記されますが、個人的に耳から聞こえる音はハイリ・セラッシ。
"ハイレ・セラシエ"の違和感がすごい(笑)



預言者:マーカス・ガーベイ(Marcus Mosiah Garvey)


黒人解放に努めジャマイカ初のナショナル・ヒーロー(国民的英雄)となったマーカス・ガーベイは、ラスタにおいて預言者と位置付けられ、ヨハネの生まれ変わりとも信じられています。
私の任地であるセントアン教区出身です!

余談ですが彼の出身地の危機について同期隊員が面白い記事をアップしていたので紹介させて下さい。
参考:ジャマイカの水資源が危ない?
    https://morishiman.wordpress.com/2015/06/12/772/



創始者:レナード・ハウエル(Leonard Percival Howell)


ラスタファリ運動の創始者。クラレンドン教区の出身。
布教にあたり何度か監獄されています。
一部のラスタには"彼が最初のラスタだ"と言われていますが、パッと見のラスタ感はゼロ。創始者だからね。


ラスタの歴史(前半)

今回はラスタ創世記~1950年代にかけてです。



1914年

マーカス・ガーベイが黒人の権利を主張し、UNIA-ACL*を設立。
*United Nigro Improvement Association and African Communities League/世界黒人開発協会アフリカ社会連合

彼は黒人のアイデンティティを求める運動として始まった"パン・アフリカ主義"に基づき、奴隷貿易で連れてこられた世界中のアフリカ系住民の解放と連帯を訴えました。
故郷のアフリカに帰りたいという人種的な切望であり、これがラスタのRepatriation、アフリカ回帰の基となります。

ガーベイの主張はアメリカだけでなく、カリブや南アメリカに住む黒人の支持を得て、1920年にはUNIAの会員は400万人を超えました。


1927年

ガーベイが「アフリカを見よ。黒人の王が戴冠する時、解放の日は近い」との声明を発表。

これが熱狂的なガーベイ主義者たちに"預言"と捉えられました。


1930年

エチオピアの皇帝にハイレ・セラシエが即位。


ガーベイの預言どおり、「アフリカで黒人の王が戴冠」するという奇跡が起こりました。
この神の啓示をきっかけとして当時UNIAのリーダーでもあったレナード・ハウエルを中心にガーベイ主義の布教が始まり、これが初期のラスタ運動へとつながります。

当時イギリスの植民地支配と度重なる自然災害、大恐慌による経済悪化などで多くの国民が疲弊しており、救いを求める貧しい下層階級の人々を中心にガーベイ主義の信者が増えていきました。


"Ras Tafari Makonnen as the promised Messiah from the bible."

キリスト教ではイエス・キリストがメシア(救世主、救い主)とされていますが、
ハウエルは「ハイレ・セラシエこそこの世に再び現れた救世主である」と断言します。

そしてエチオピアの皇帝(Emperor of Ethiopia)を意味する「Ras Tafari Makonnen」から名前を取り、この運動が"Rastafari"と呼ばれるようになるのです。



1934年

ハイレ・セラシエを救世主とするハウエルの思想は反教会的、反政府的と考えられ、運動に危機を感じた政府は弾圧を始めます。そしてハウエルは「英王室への侮辱罪」として逮捕されるのです。

短期間の拘束であったものの、この後ハウエルは何度か投獄されることに。


そしてこの頃ハウエルを含むラスタファリアンは弾圧を逃れるため丘陵の奥に逃げ込み、最初のラスタキャンプとしてSt.Catherine教区にPinnacle(ピナクルorピネクル)コミューンを作りました。
ここでの共同生活を通して様々な儀式やガンジャ(大麻)、ドレッドなどラスタファリズムのスタイルと信仰を確立していったのです。

ちなみにピナクルは現在でも残っており、ラスタの集会が行われています。
キングストンからオーチョリオスに向かう際通るBog Walk近くのコミュニティです。ナヤビンギ(ラスタの集会)が見学可能です!

ナヤビンギ(イメージ)@RastaVillage


1940s-1950s

警察の襲撃を数度受け、数百人ものラスタが逮捕されました。
1954年にとうとうコミューンを破壊され、ラスタ達はスラム街に放り出されるのです。


この少し前である1945年、伝説のレゲエミュージシャン、ボブ・マーリーがこの世に生を受けました。
ボブは幼少期をセントアン教区にあるナインマイルズで過ごしますが、彼が10歳になる1955年、父の死をきっかけに経済状況が悪くなった母親が職を求めてキングストン郊外のスラム街にボブと共に移り住みます。

時を同じくしてスラム街に移り住んだ両者。
これがボブマーリーとラスタの出会いに繋がっていくのです。




あぁ難しい!
次回は1950年代後半から現在までです。


つづく

※この投稿は、ジャマイカでの語学訓練やラスタ村の訪問、現地の方々から学んだ話を元に執筆しています。間違いや解釈の違いがあればぜひ教えてください。
Special Thanks; Arlene, Wendy, Ra-jah

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2015年6月21日日曜日

ラスタとは何ぞや


ラスタと聞くと、何をイメージしますか?

ジャマイカに来るまでの私は、3色のラスタカラーと、レゲエ、それから日吉のラーメン屋さん"らすた"ぐらいしか知識がありませんでした。





今まで歴史や宗教は苦手分野だったのですが、駒ケ根訓練所での講義で少し興味を持ち、
ジャマイカに来て実際の文化に触れ、ルーツを学ぶことが楽しいと気づきました。


それとともに、日本でのラスタやレゲエのイメージに少し違和感をもつこともあって。
"ファッション・ラスタ"というか、実際の成り立ちや意味を分かってるのかな?と。


レゲエは音楽のジャンルなので深く考えている人は少数派かもしれませんが、
せっかくジャマイカにどっぷり2年浸かっているので、本当の文化も伝えていきたいとずっと思っていたんです。


ジャマイカに来てからやりたいと思っていたことの1つ、ラスタについて学んだ事をまとめる。


せっかくなので、この機会にドドッとまとめたいと思います!



ラスタとは?

ラスタとはラスタファリ運動(Rastafari Movement)やラスタファリアン(Rastafarian)の略称。

1930年代ジャマイカで発生した宗教的思想運動であるラスタファリ運動の実践者をラスタやラスタファリアンと呼びます。



一種の宗教と扱われることもありますが、

・ラスタはライフスタイル
・ラスタは宗教ではなくリレーション(関係)

とも言われ、思想的な側面が強いようです。

根本はキリスト教にあり聖書を聖典としますが、そこから派生してジャマイカの文化や黒人奴隷の歴史と融合したものがラスタという思想になりました。




究極のゴールはアフリカ回帰

"Repatriation of the Blacks Back to Africa"




ラスタの根源はアフリカ回帰、いわば究極のゴールはアフリカへ帰ること。

当時のジャマイカでは98%が黒人奴隷の子孫であり、先祖たちが故郷のアフリカから奴隷として強制的に連れられてきた歴史から、

"ジャマイカは本来いるべき場所"ではなく、アフリカこそがザイオン(Zion,天国)である"
と考えられています。


現在のラスタは実際アフリカに帰るというよりも
"Body(身体)ではなくMind(心)をアフリカ式に暮らす"ことにより
彼ら本来の生き方を全うすることを大切にしているそうです。


ラスタとレゲエ
 
ラスタと言えば一番に出てくるのがキング・オブ・レゲエ、ボブ・マーリーではないでしょうか。
ラスタとレゲエは彼によって広まったとも言えます。
 



レゲエはラスタの公式音楽である、というような勘違いがされがちですが、レゲエ=ラスタではありません。

ただ、ラスタの思想が多くのミュージシャンに支持され、当時のジャマイカの世情と融合しながら生まれた嘆きのメッセージがレゲエへと繋がっていったため、この2つは切っても切れない関係にあるのです。


この背景を語るにはラスタの歴史が重要になってくるのですが、
かなーり長くなりそうなので、これについてはまた次回!



つづく

※この投稿は、ジャマイカでの語学訓練やラスタ村の訪問、現地の方々から学んだ話を元に執筆しています。間違いや解釈の違いがあればぜひ教えてください。
Special Thanks; Arlene, Wendy, Ra-jah


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2015年6月20日土曜日

ジャマイカTOEFL事情

 
少し前にはなりますが、2月に人生初のTOEFLを受けてきました。
 
今後留学予定はありませんが、たるんだ英語学習に喝を入れたかったのと、任期中の語学力を測る数値が欲しかったので、自己投資として受験することに。お財布が痛い。
 
 
記憶が薄れつつありますが、せっかくなので今回はジャマイカでのTOEFL受験について紹介したいと思います。
 
 
ジャマイカTOEFL事情
 
ジャマイカでのTOEFL受験は、首都キングストンにあるUWIという大学の1カ所のみで可能。
インターネット形式で実施されるTOEFL iBTです。
 
ちなみに現在ジャマイカでのTOEFL iBT受験料は195$
 
私の受験した2月は180$だったのでちょっと値上げされてますが、日本の230$に比べるといくらかお得みたい。
 
 
 
 

会場のUWIは広大なキャンパスです。
門から受験会場までも遠いことが予想されたので当日はタクシーで会場近くまで乗り付けました。
集合時間15分前で余裕だと思っていましたが、会場は閑散として誰もいない。。


集合時間を過ぎても誰も来ない。


集合時間から25分後(テスト開始5分前)
ようやく会場が開きました。



あれ?人いなくない??



と思ったら受験者は3名



ジャマ人、ジャマ人、私。少なっ!!



魔のスピーキング

スピーキングテストはヘッドセットを使って録音する形式ですが、この時間が本当に拷問でした。


なんせジャマイカの公用語は英語
大学に通っているジャマイカ学生、そりゃ英語ペラペラですよ。


それぞれテスト時間にタイムラグがあるため、
シーーーーーンとした会場に私の拙い英語が響き渡りプレッシャーにやられ、

インターバルに聞こえてくる隣の学生の回答が素晴らしすぎてさらに追い込まれ、、

次の問題はさらに話せなくなるという負のループ。


誰も気にしてないとは思いつつも、個人的にはかなり酷な環境でした...



次回は9月頃受験予定。
TOEFL用の勉強はしませんが、まずは心臓の育毛につとめよう。

2015年6月19日金曜日

200



このくだらなブログも今回で200件目

2014年10月に100件目を迎えたのち大幅スピードダウンしましたが、5月後半から快調です!
記事のストックが切れないように頑張ります。


私がブログを書くのは


身近な人への近況報告
伝えたいことがたくさんあるのでSNSやメールだとためらいます。


将来の後輩隊員への情報蓄積
自分も10年以上前に任地にいた隊員や他国隊員のブログからヒントをたくさんもらっているので、いつか役立てば良いなと。


青年海外協力隊やジャマイカのリアルを発信する
仕事でお世話になったJICAの方から"情報発信は積極的に"とのアドバイスをいただき、国費で活動させていただくからには情報を残すことも務めだと感じたので。



という目的でしたが


最近ふと思い返すと自分の記録と頭の整理が一番の理由かも。




ブログを書き続けているだけでも、この2年がさらに貴重なものになる気がします。
たまに自分語りのナルシスト記事が出てきますが生暖かく見守って下さい。




1年3カ月振り返り

さてさて、100件目で半年を振り返ったので、今回も1年3カ月を振り返りたいと思います。
長くなりますがご容赦ください。


2014年3月25日、日本出発!
1ヵ月間は大大大好きな同期野郎たちと高級住宅の恵まれたドミ生活。
最近は話も尽きて倦怠期ですが、それでも居心地よくて最高です。



5月、6月は、ハネムーン期(何もかも新鮮で楽しい時期)が過ぎ、カルチャーショック期(文化の違いにイライラしたり落ち込む時期)に突入。配属先が何ぞやとも分からずオフィスに1人で、ただただ寂しかった記憶が。この頃から在宅勤務に。



7月からはある意味諦めることが出来て、「こんなもんか~」と思いながら前に進もうともがいた記憶。1人で行動し始め、ワークショップをしたり9月のイベントに向けて充実していた。



9月末~10月は、海洋研究所との海岸清掃、配属先の環境週間イベント、高倉式コンポストの在外研修や、中間報告会、と目白押し!あっという間に過ぎ去りました。



しかしそれと同時に、プチセクハラ事件があり(今度書きます)本気で任期短縮を考えた時期。
すべてに否定的になり誰も信じられず、外に出るのが怖くて引きこもりがちな日々。
辛くてたまらなくて一番泣いたなーー。


11月の大きなイベントをきっかけに少し立ち直り始め、気分を変えるためにも任国外旅行に行きました。旅行が決まってからは頑張れたし、ジャマイカを好きな自分にも気づけた。リフレッシュ成功!


 
リフレッシュした12月は、突撃訪問でカレッジのリレーションをGET、念願のルーティーンワークが
出来た時期でした。この時期はかなり必至だった。



年末年始に家族と先輩ご夫婦が同時にジャマイカに来てくれ、最高に癒されました。
赴任して9か月、私にとって日常の風景になっていたジャマイカが、4人の新鮮な反応によって再度色づいた瞬間。



1月~3月はヤギのことしか思い出せない(笑)
自力でヤギ酪農のプロポーザル書き終えたのは、活動してきた中で一番達成感がありました。

 

4月に入り任期が残り1年を切ると、いきなり気持ちが変わると言うか、ゴールが見えたことですごく気楽にもなりました。同時にあと1年という焦りも少~しだけ。
"協力隊の活動は2年目から"と言われることもありますが、私もジャマイカや配属先のことがより見えて来て、何をすれば良いのか、何が出来るのか、頭がクリアになった時期です。



5月のゴールデンウィークには立て続けに友達が2人遊びに来てくれ、もう一度リフレッシュ!



そしてアウトリーチ活動を始めました。



6月に入り同僚ボランティアが任期短縮で帰国。
彼が始めようとしていた養蜂プロジェクトを引き継ぎ、研修会が始まりました。始まったばかりで一瞬炎上しかけましたが、、今日鎮火できたはず。ヒヤヒヤ!




こうして見返すと
今年に入ってからはヤギに夢中だったこともあり、なかなか充実した活動が出来たと思う。

超順調とまでは言えないし、もちろんもどかしさの方が大きい。
自分が何か残せているとも思えない。上手く進められていないプロジェクトもあります。


だけど今、"モテ期"がきている。
何だか依頼もたくさん来るし、仕事に繋がっていく。
1年前には考えられないほど仕事が手一杯で、ありがたいほどです。


地道に1年ちょっと活動してきて、私が何を出来るか、私をどう使えるか、任地の人が分かり始めたのかな?とも思っています。仕事が見つからない時期から色んな所に顔を出して連絡し続けることはやっぱり大切でした。
昔お父ちゃんが教えてくれた「積小為大」という二宮尊徳の言葉、これからも大切にしていこう。


残りの任期
個人的には苦手なアウトリーチ活動よりも、もっと経験を積みたいプロジェクト立上げとマネジメントに力を入れていきたいので、突然来たこのタイミングを逃さないように頑張らねば。


ジャマイカ生活、残り277日!